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トウエキキチーパオ
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時代と共に移り変わる旗袍(チャイナドレス)の歴史

旗袍(チーパオ):チーパオの「チー」は北京語の口語で満州族のことを指し、17世紀に漢民族側へ侵略してきた「八旗」と呼ばれる満州族の軍隊、政府組織を意味しています。「パオ」は長い衣服の意味です。満州族とは万里の長城より北、中国北東部に居住していた民族で、250年続いた清代には満州族の中国全土の支配により漢民族にもその文化、習慣が大きく普及しました。

1644年に満州族が全国の支配を開始した当時、満州族の服装は丸い襟ぐり、細い袖、右側に衣服の開き部分が付き、そして腰にはベルトを巻いていました。そして服の多くは皮革で出来ていました。満州族が支配を拡大するにつれ、狩猟民族である満州族と農耕民族である漢族の文化が融合し、服装も変化していきました。襟は1寸ほど高くなり、4本入っていたスリットは両側2本になりました。細い袖は袖口の大きく広がったラッパ袖になり、そして襟、袖口には縁取りも付くようになりました。服装としての仕立てのレベルも上がり、生地には綿が使われるようになりました。また少しずつですが絹も用いられるようになってきました。


旗袍(チーパオ)を着た満州族女性(清代)


清朝時代の服装はその地位によりデザイン、刺繍柄などが全て細かく決められており、個人の好みは完全に排除されました。多くの規制によりファッション的な自由度、価値はほとんど見出すことが出来ませんでした。
しかし1912年の清朝の滅亡とともに、当時の服装の規制、習慣も終焉の時を向かえました。

女性にとって清朝の滅亡、そして中華民国誕生による最も大きな変化は纏足(てんそく)の法律による禁止で、漢の時代から続いていた女性の足を布できつく縛り、小さいままに留めておくという習慣がほぼなくなりました。それでも中国農村部も含めて完全にその習慣がなくなるまでは20世紀半ばまでかかりました。この時代を境に旧習はほぼ終焉し、中国女性の新しい時代が始まりました。

中華民国時代には新文化運動の影響で徐々に新しいスタイルのチャイナドレスが現れるようになってきました。民国時代初期のチャイナドレスは体の線を強調せずゆったりとしたラインで広い袖、右開き(右大襟)のデザインが主流でした。この時代のチャイナドレスはまだズボンを一緒に着用するのが一般的でした。チャイナドレスの丈、ズボン丈も服装の規制が緩和されたことにより、以前よりも短めのものを着用できるようになりました。

20年代、子供用の大袖チャイナドレス 20年代末のチャイナドレス 1920年代のチャイナドレス
20年代、子供の大袖旗袍 20年代末、南洋煙草公司広告 1920年代の旗袍

ラッパ袖チャイナドレス  ラッパ袖チャイナドレス

1920年代のチャイナドレス。袖が喇叭(ラッパ)のような形をしてので「喇叭袖」と言います。袖の付け根より幅の広い袖口がその当時のチャイナドレスの特徴です。

20年代、西洋文化が中国に押し寄せ、チャイナドレスにもその影響が現れてきました。チャイナドレスの生地は外国からの輸入品を使ったものも多く見られるようになり、生地の色、柄も豊富な種類が揃い、西洋のレース、プリーツ、ボタン、リボン、そして肩パッドまでもチャイナドレスに取り入れられるようになりました。デザインの自由度が増すにしたがってチャイナドレスはさらに身近な存在になり、以前にもまして多くの女性に愛されるようになりました。チャイナドレスが中国の民族衣装として確立され広く愛用されたこの時代は、まさにチャイナドレスの黄金時代だったと言えます。
清代までの服装は女性の体型を隠すものでしたが、西洋文化の影響を受けたチャイナドレスは体の線をいかに美しく見せるかが重要になってきました。デザインはスリムで細い袖、または袖なしといったスタイルになりました。また西洋のミニスカートや上海に輸入されたストッキングの普及もあり、チャイナドレスの着丈も膝までの短いものが多くなり、当時の女性は肌を以前より露出しモダンな雰囲気を楽しみました。靴も西洋のハイヒールが広く普及しました。


1930年代中期のチャイナドレス  1930年代中期のチャイナドレス  1930年代中期のチャイナドレス
1930年代中期のチャイナドレス

30年代のレース素材を使用したチャイナドレス
1930年代の礼服チャイナドレス。レース素材を使用したチャイナドレスも普及しました。

西洋生地で仕立てたチャイナドレス。首にはスカーフ。 30年代の長袖ビロードチャイナドレス 1930年の上海チャイナドレス
西洋生地で仕立てた旗袍 30年代長袖ビロード旗袍 1930年の上海旗袍

この時代スリムなチャイナドレスが好まれるようになると、自身の体型にも理想を求める女性が増えてきました。理想のスリーサイズとして「36−24−36」という数字が女性の間で広く語られました。この数字はインチ表示でセンチに直すと「90cm、60cm、90cm」になります。それぞれバスト、ウエスト、ヒップのサイズになり、この理想のボディーラインに近づくためダイエット、運動、マッサージなどに励んでいました。

清朝末期に西洋の科学と技術を学ぶために派遣された留学生が、この時代になると続々と中国に戻るようになりました。みな西洋風のモダンなドレス、スーツに身を包み帰国してきました。各国に派遣された留学生は他国の発展した政治、経済に習い、中国の遅れた古い習慣を終わらせる必要があると主張しました。西洋の文化の影響は最後の皇帝、溥儀にも及び、顧問のジョンソンにならい公式の場でもスーツを着るようになりました。

20年代に上海から始まったモダンなチャイナドレスの流行は徐々に内陸部にも広まるようになりました。そしてこのようなチャイナドレスは30年代には一般的な外出用の服装として国民に受け入れられるようになりました。この服装の変化も中国近代化へ一歩です。そしてこの時期中国ではブルジョア階級が多く生まれ、彼らが民間の発展の中心になりました。中国の内需は拡大し、そして資本主義の大量生産様式は発展をさらに推し進めました。中国の都市化は20年代後半に大きな発展を成し遂げ、都市の商工業はより盛んになっていきました。この時期の上海は中国の経済の中心になり、上海周辺の都市にも大きな発展をもたらしました。

このような自由な雰囲気の中で発展したチャイナドレスですが、40年代になると日本軍の中国進出により経済は行き詰り始め、物資も乏しくなっていきました。チャイナドレスも生地の節約の為、襟、袖を短めにするなど出来るだけ生地を使わないよう工夫されました。

1949年以降の社会主義中国では労働に適した服装が一般的になり、チャイナドレスを着る機会は極端に減りました。チャイナドレスを着るのはお祭りやイベント、政治家の外交活動の時のみになりました。


60年代、70年代は文化大革命の時期でした。旗袍や洋服は封建思想や資産階級の意識の表れと見なされ、流行や個人のファッションは全て否定されました。社会的に個人の自由は抑圧され、中国の服飾の歴史の中でもこの期間は停滞の時期だったと言えます。中国の服装は「軍服」や「中山装」など紺、灰色、カーキ色になり、女性らしさの全くない中性的なファッションになりました。また物資の乏しい時代でもあり、日常品は何とか配給されましたが、服の仕立てに使う生地は不足気味で種類、色も非常に限られました。きれいな服が姿を消した時代でも、女性は少しでも自身を美しく見せるため服に柄入りの生地を縫い付けたり、小さな手刺繍を施したりしました。

80年代になると改革開放政策により再びチャイナドレスの文化が蘇りました。デザインはさらに現代風のものになりスタイルもより女性の美しさを引き出すよう研究されました。民国チャイナドレスが誕生してから半世紀、この間に中国女性の地位にも大きな変化がありました。女性の地位は大きく向上し、チャイナドレスに対する価値観も大きく変わりました。

以前チャイナドレスは普段着として着用され、外見を美しく着飾るためだけの服でしたが、今では自分の努力で得た社会的地位、知識、また自分の価値観を表現する方法としてチャイナドレスを選びます。今はチャイナドレスも礼服として着用されることが多くなり、ウエディングドレスとしてのチャイナドレスから、イベント、パーティに出席する際の正装礼服、おしゃれな普段着として、着用する機会、場所も多岐にわたります。

中国も経済発展とともにさらに世界で存在感を増し、世界から注目されればされるほど中国人としての国際的な価値観を感じるようになります。女優のゴン・リーは外国の映画祭授賞式では中国の代表、また誇りとしてチャイナドレスを着用します。また2008年のオリンピックがモスクワで決定した際、オリンピック招致委員会の楊瀾(ヤンラン)が中国代表として4分間のスピーチを行なった際はチャイナドレスに身を包み、中国の服飾文化、シルク生地の素晴らしさを全世界に向けて伝えました。そして今、国際的な祭典であるオリンピックを2008年に控え、さらに中国文化であるチャイナドレスが注目されていくことでしょう。

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